「私は自分で望んで、時短勤務を選んだの」。職場の先輩女性はそう言って笑った。立派な選択だ。だが、私はこの「自分で選んだ」という言葉に、ずっと引っかかっている。本当に、まっさらな自由のなかで選んだのだろうか。今日はその違和感の正体を解く。
結論を先に述べると、人の選択は、その人の意思だけで決まらない。
まわりの環境、社会の常識、選べる選択肢の数──こうした“見えない枠”の中でしか、人は選べない。枠が最初から歪んでいれば、その中での「自由な選択」もまた歪む。これがこの回の核心だ。
「選んだ」のか「そう仕向けられた」のか
ある夫婦に子どもが生まれ、どちらかが仕事をセーブする必要が出たとする。ここで多くの家庭が妻のほうをセーブさせる。
なぜか。
第一に、妻のほうが収入が低いことが多いからだ。
同じだけ稼いでいないのだから、収入の低いほうが家庭に回るのが“合理的”に見える。だが、その「妻の収入が低い」状態こそ、社会の仕組みが作り出したものだ。
出発点が傾いているのに、その傾きを前提に「合理的な選択」をすれば、結果はますます傾く。
「ガラスの天井」と「ベタベタの床」
女性の昇進を阻む見えない壁を「ガラスの天井」と呼ぶ。上は見えているのに、透明な板に阻まれて届かない。
だがもう一つ、あまり知られていない言葉がある。
「ベタベタの床(スティッキー・フロア)」だ。
床に足が貼りついて、そもそもスタートラインから動けない。育休明けに責任の軽い部署へ回され、昇進コースから静かに外される。
本人が望む前に、レールが切り替えられている。これでは「選んだ」とは言えない。
刷り込みは、子どものころから始まる
もっと根が深い話をする。
「女の子は数学が苦手」「リーダーは男がやるもの」。
こうした思い込みを、私たちは子どものころから浴びて育つ。すると本人ですら「私はこういうタイプだから」と思い込む。これを心理学では、刷り込まれた期待が現実の行動を変えてしまう現象として知られている。
つまり、選択の前の段階で、すでに“好み”そのものが作られているのだ。
では、どうすればいいのか
誤解しないでほしい。専業主婦や時短勤務を選ぶこと自体は、まったく立派な生き方だ。問題は「それしか選べない」状況にあることだ。
仕事も家庭も同じように選べて、その上で家庭を選ぶなら本物の自由。だが、片方の道がふさがれた上での選択は、自由の顔をした不自由でしかない。
“理想の母親”という、見えない採点表
もう一つ、女性の選択を縛るものがある。
「理想の母親はこうあるべき」という、世間の見えない採点表だ。
手作りの弁当、行事への参加、いつも笑顔で子どものそばに。この基準は、年々厳しくなっている。
働く母親は、この採点表と現実の間で引き裂かれ、罪悪感を抱える。
一方、父親が同じことをできなくても、世間の採点はずっと甘い。少し手伝うだけで「イクメン」と称賛される。同じ親なのに、採点基準がまるで違う。
この非対称が、女性にだけ“家庭優先”を静かに選ばせている。
私自身の中にも、その採点表があった
白状する。私自身、心のどこかで「子どもが小さいうちは母親がそばにいたほうがいい」と思っていた。
だが、よく考えればおかしい。
なぜ“母親”なのか。父親ではだめなのか。その問いに、私はちゃんと答えられなかった。つまり私もまた、無意識に採点表を握りしめ、妻にだけ厳しい点をつける側にいたのだ。選択を狭めているのは、遠くの誰かではない。私のような“普通の人”の頭の中にある、何気ない常識なのである。
私たちが目指すべきは「女性はみんな働け」ではない。「働くも、家にいるも、本人が本当に選べる」状態だ。
次回は、その選択を後押しするはずの「子育て支援制度」に目を向ける。
制度はある。なのに、なぜ多くの親が「足りない」と嘆くのか。その構造的な理由を解く。





