これまでの回は「働く」話だった。今日はもっと根っこの話をする。女性が自分の体について、いつ・何人・子どもを持つか、あるいは持たないかを、自分で決められるか。これは社会参画以前の、すべての土台だ。そしてここは、賛否が最も激しく割れる領域でもある。
最初に私の立場を明確にしておく。この回では、どちらかの結論を押しつけない。避妊や中絶をめぐっては、根深い価値観の対立がある。私の役目は、なぜこれが「女性の社会参画」に関わるのかを示し、両方の言い分を公平に並べることだ。判断は読者にゆだねる。
なぜ「体の自己決定」が働き方に関わるのか

話はシンプルだ。妊娠・出産の時期を自分でコントロールできるかどうかは、人生設計をコントロールできるかどうかと直結する。学業や仕事の見通しを立て、いつ子を持つかを選べる。これができて初めて、女性はキャリアを長期で描ける。避妊の手段が手に入るようになったことが、世界の女性の社会進出を大きく後押ししたのは、歴史的な事実だ。体の自己決定は、人生の自己決定の入口なのだ。
世界では、ここが激しく揺れている

海外に目を向けると、この問題がいかに重いかが分かる。アメリカでは、長年、中絶を憲法上の権利として認めた判断があったが、2022年にそれが覆された。州ごとにルールが大きく分かれ、社会を二分する大論争になっている。「権利は一度勝ち取れば安泰」ではない。状況次第で揺り戻すことを、アメリカは示している。
対立する二つの言い分

この問題では、二つの価値観が正面からぶつかる。一方は「女性が自分の体について決める権利こそ最優先だ」という考え。もう一方は「胎児の生命も守られるべきで、無制限の自己決定には限界がある」という考え。前者を軽んじれば女性の人生が他人に握られる。後者を軽んじれば生命の重みが置き去りにされる。どちらの言い分にも、真剣に耳を傾けるべき芯がある。だから簡単に「正解」は出せない。
日本はどうか

日本では、この問題が欧米ほど激しい政治対立にはなっていない。だがその裏で、女性が使える避妊の選択肢が他の先進国より限られてきたという指摘や、手続き上の制約をめぐる議論が続いてきた。声高な対立がないことは、問題がないことを意味しない。むしろ「議論されないまま放置されている」という別の問題があるのだ。
「中絶」と「避妊」は、分けて考える

議論を整理するために、二つを分けよう。望まない妊娠を“事前に”防ぐ避妊と、妊娠した後の中絶は、別の問題だ。中絶については生命をめぐる重い価値対立があり、簡単に結論は出ない。だが避妊については、より広い合意がある。確実な避妊手段が手に入れば、そもそも重い決断を迫られる場面そのものを減らせるからだ。世界では、女性が自分の意思で使える避妊手段を広げることが、対立の少ない現実的な第一歩とされてきた。まず入口を整える。それが順序だ。
なぜ日本では、この話が“タブー”なのか

日本では、性や避妊の話を公の場で語ること自体が、長くタブー視されてきた。学校でも家庭でも、踏み込んだ話は避けられる。その結果、知識が共有されず、女性が自分の体について選ぶための材料すら、十分に渡されてこなかった。激しい対立がない代わりに、議論そのものが存在しない。これもまた、“常識”という名のラスボスが、人々の口を閉ざさせている一例だ。沈黙は、平和ではない。
ここまでで、現状・海外・自己決定権を見てきた。なぜ、これほど多くの仕組みを変えても、ジェンダーの差はしぶとく残るのか。次回はいよいよ折り返し点。すべての伏線を回収し、“ラスボス”の正体を明かす。